良くないことをした後に、激しく後悔した経験はないでしょうか。
後悔の思いがあまりに強く、いても立ってもいられないようなちになったことは?
そんな状態を指す言葉として「良心の呵責に苦しむ」という表現があります。
ここでは「良心の呵責」という言葉の意味や読み方、類語や使い方、例文、また良心の呵責に苦しむ心理も見ていきます。
- 良心の呵責の意味とは?
- 良心の呵責の類語
- 良心の呵責の使い方
- 良心の呵責を使った例文
- 良心の呵責を使った名言
- 良心の呵責に苦しむ心理
- まとめ
1. 良心の呵責の意味とは?
1-1. 良心の呵責の読み方
「良心の呵責」は「りょうしんのかしゃく」と読みます。
「呵」という字は、現代では「呵責」以外ではほとんど目にすることもありませんが、「か」と読み、「責める」「とがめる」「なじる」という意味を持ちます。
「呵責」の「責」は、通常の音読み(漢音)では「せき」ですが、ここでは仏教用語などの読みに多い呉音で「しゃく」と読みます。
1-2. 「良心の呵責」の意味
「良心」とは「何が正しいことで、何が悪いことであるかを判断する心の動き」のことです。
「呵責」とは、「厳しくとがめだてすること」という意味です。
「良心の呵責」というと、自分の行為に対して、良心が「それは悪いことだ」と自分を強く批判し、「おまえは悪いことをした」と責め立てる、ということになります。
2. 良心の呵責の類語
2-1. 「罪の意識」
社会のルールや道徳に反したことをしてしまった、自分には「罪がある」と感じる気持ちです。
法律違反のような明確に罪に当たることではないけれども、「悪いこと」をしたという意識が対象になるので、個人や地域、国によって差があります。
第三者から見て「そんなことをいちいち思わなくても」と感じる場合もあれば、「それは『罪の意識』なんていうレベルではなく、犯罪だろう」と感じる場合もあります。
2-2. 「罪悪感」
「罪を犯した」「悪いことをした」と思う気持ちです。
「罪の意識」よりも、もう少し強く、長期間に渡る感情を指すこともあります。
特に、抑うつ感の原因として、自分の心をいつまでも縛っている罪悪感がある場合があり、心理学などで問題になるときは、「良心の呵責」などではなく、この言葉を使います。
2-3. 「後悔」
「こうすれば良かったと、後で残念に思うこと」を指します。
この言葉には道徳的なニュアンスはありません。
悪いことをしようかすまいかと迷った挙句、結局しなかった、後でやっぱり悪いことをすれば良かった、と考えるとき、「良心の呵責」は使わず、「後悔」を使います。
2-4. 「気が咎(とが)める」
自分が何か良くないことをしてしまったときに、うしろめたい気持ちになることです。
ここで言っている「気」とは、「あれこれと考える心の動き」を指しています。
「仕事が遅くなって、ほかの人に迷惑をかけてしまい、気が咎めた」というように、比較的軽微なことを指すのが普通です。
2-5. 「自責の念に駆られる」
「自分で自分の失敗や過ちをせめること」という意味の言葉です。
ピッチャーが自分が打たれたり、四球を出したりして、取られた点のことを「自責点」と言いますが、「自責の念」も「自分がやったこと」に焦点を当て、それを自分が責める、というニュアンスが強調されています。
2-6. 「うしろめたい」
「自分が良くないことをした、という気持ちで、正々堂々とできない」という気持ちを表します。
2-7. 「疚(やま)しい」
「良心に恥じる気持ちである」ことをあらわす言葉です。
「何も疚しいことはしていない」という反語としても、よく使われます。
2-8. 「お天道様の下を歩けない」
少し年配の人が言うのを聞いたことがあると思います。
また、時代劇のせりふでも出てきますね。
古くから日本人は、太陽信仰の一種で、太陽を敬い、崇めてきました。
「お天道様」とは、その太陽を、敬いつつも親しみをこめて呼ぶ言葉です。
「良心」というのが、明治時代に入って来た西洋的な考えであるのに対し、日本は「公明正大さ」の基準を、「お天道様の前に出られるか」「お天道様の下を歩けるかどうか」と、「お天道様」に置いてきたのです。
この言葉は「良心」の代わりに、「お天道様」に照らし合わせて、恥かしく思う気持ちを言っています。
3. 良心の呵責の使い方
「良心の呵責」を使うときは、「良心に照らし合わして、間違っていると自分が感じ、自分を責める気持ちのあるとき」です。
「あんなことはしなければよかった」のような単なる後悔のときや、「失敗しちゃったなあ」といった程度の、ちょっとした気分の揺れのときには、この言葉は使いません。
損得ではなく、善悪の基準に照らして、悪いことをした自分を恥じ、責める気持ちを言いたいときに使います。
逆に、周囲から責められたり批判されたりしたときに、自分は何も悪いことをしていない、と言いたいときに、「良心の呵責はまったく感じない」と使うこともできます。
4. 良心の呵責を使った例文
4-1. 例文1
「母が亡くなったときに、近くにいてあげられなかったことで、私は長く良心に苛まれた」
(※ここには、近くにいてあげたかった、という気持ちだけでなく、「子供は老いた親の傍にいるべきだ」という道徳意識があります。)
4-2. 例文2
「私は罪を犯したことについては、何ら良心の呵責は感じていない。
そのぎりぎりの状況の中では、そうするしかなかったのである」
(※「罪を犯す」というルール違反はしたけれども、その行為は自分の「良心」から見ると、正当化できるものである、という気持ちが表れています。)
5. 良心の呵責を使った名言
5-1. 名言1
「良心の呵責とは、子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰にたいする恐怖だけだったのである」
(遠藤周作『海と毒薬』)
5-2. 名言2
「不当に非難することより、不当に称賛してしまうことの方が、良心の呵責を呼び起こす。
おそらくそれは、不当に非難することよりも、
不当な称賛をすることの方が、私たちの判断力の欠如をあますところなくさらしてしまうからだろう」(ニーチェ)
5-3. 名言3
「つまり私には良心がないということを言いたいのである。
はじめからそんなものはなかった。
鞭影の恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである」
6. 良心の呵責に苦しむ心理
「良心の呵責」は、これまで見てきたように、自分の行為に対して、良心が非難し、責め立てることです。
ここで問題になるのは、自分自身を責める「良心」とは、いったい何なのか、ということです。
6-1. これまでの経験の中で刷り込まれてきた価値観や道徳観
私たちの多くは、ほとんど意識しないまま、驚くほど多くの価値観や道徳観に縛られています。
日本に住む外国人が、通常の日本家屋であっても土足で生活しているのを見て、何とも言えない違和感を感じる人は多いでしょう。
畳の部屋に、自分も同じように土足で入るには、抵抗を感じない日本人の方が少ないかと思います。
私たちはこのように、生まれた場所や国、あるいはまた宗教などによって、独自の価値観を育んでいます。
長きにわたって自分に刷り込まれた感覚が「良心の呵責」として働くことは多いでしょう。
6-2. 親に繰り返し言われた言葉
親との関係に苦しんでいる人は多いですが、その苦しみをより深くしているのが「良心の呵責」であることは少なくありません。
「親の面倒は子供が見るべき」「親の言うことには従うべき」など、かならずしもそれが当てはまる場合でなくても、そうできない自分を責め、「良心の呵責」に苛まれている人は多いのです。
「おまえはバカだ」と繰り返し言われ、「自分はバカだ」と思っている人は、自分が能力を発揮すると、「良心の呵責」を覚えるかもしれません。
私たちの脳内は、時に、不合理な働きをするのです。
かならずしも合理的ではなく、誰のためにもなっていなくても、私たちはそれを「良心」と意識している可能性があります。
自分が感じている「良心の呵責」を一度、冷静に分析する必要がありそうです。
6-3. 脳内にある二つのシステム
近年、脳科学の進歩によって、人間の脳の働きが詳しくわかるようになってきました。
それによると、人間の脳内には、「自律的システム」と「分析的システム」という2つの異なるシステムが並行して存在し、それぞれが独自の動き方をしていることがわかっています。
「自律的システム」は刺激を自動的に、迅速に処理し、意識では制御できない反応を引き起こします。
それに対して「分析的システムは、言語や規則に基づく処理を行い、意識的に刺激を系統だてて制御するのです。
たとえば、自分の頭に生えている髪の毛を「汚い」と思わないのに対し、たとえ自分の髪の毛でも、食べ物に入っていると「汚い」と感じてしまうのは、脳内の「自律的システム」が、自分の身体の一部と見ることをやめ、自分とは異質の排除すべき「異物」として認知するからです。
あるいはまた、車を運転していて子供が飛び出すときに、とっさに急ブレーキを踏むことができるのも、「子供だ」「危ない」「ブレーキをかけなくては」と「分析的システム」が判断する前に、「自律的システム」が作動して、ブレーキを踏め、という信号を送っています。
この脳内の「自律的システム」は、非常に役に立つ反面、私たちの認知のゆがみも引き起こすのです。
「自律的システム」が、無意識的に誤った判断をくだし、「分析的システム」がその誤りを正す、ということが脳内でしばしば行われています。
たとえば「20%の人に暴力行為の再発が見られる」というより、「100人中20人の人が暴力行為を繰り返す」と言った方が、危険な印象を受けた人が多かった、という統計がありますが、これはどちらも同じことを言っているのは、冷静に考えればわかることです。
ですが、「自律的システム」は抽象的な20%という数値より、具体的な20人の方をリアルに思い描くことができるため、とっさにそちらの方が多い、と判断してしまうのです。
「自律的システム」が下した判断を、「分析的システム」が訂正しようとして、訂正がうまくいかないと、私たちの気持が落ち着かなくなったり、苦しくなったりします。
その状態を「認知不協和」と呼びます。
認知不協和が起こると、私たちは何とか正当化しようとします。
ちょうどイソップの寓話で、ブドウに届かなかったキツネが、「あれは酸っぱいにちがいない」と考えて自分を納得させようとするように。
私たちが無意識のうちに「良心」と判断しているのは、一種の「自律的システム」かもしれません。
もちろん社会のルールや、自分が選んだ宗教が「良心」の中身である場合もありますが、不合理で、認知のゆがみを引き起こし、結果的に私たちを苦しめている「良心」もあるのです。
「分析的システム」を使って、社会のルールや道徳に照らし合わせて、一度自分の「自律的システム」を分析してみてはどうでしょうか。
まとめ
ここでは「良心の呵責」とはどういう意味か、読み方や例文、類語や「良心の呵責」が出て来る名言などを見てきました。
それに加えて、私たちが「良心の呵責」を感じる心理も、脳のシステムと併せて、見ていきました。
「良心の呵責」があるから、私たちは社会のルールを守ったり、自分の好き勝手をしなかったり、人のためになるような行動をしています。
これは、「良心の呵責」のプラスの側面です。
反面、「良心の呵責」のせいで、私たちは苦しんだり、自己嫌悪に陥ったり、自分の力が十分に発揮できなかったりもしています。
そのとき、私たちを苦しめている「良心」の正体とは何なのでしょうか。
本当は「良心」などではなく、非合理な「認知のゆがみ」を正当化しようとしているのではないでしょうか。
「良心の呵責」を感じて、ある行動を反省し、軌道修正することで、気持ちもよくなり、周囲との関係も良くなった、というのであれば、「良心の呵責」はおおいに役に立っています。
しかし、「良心の呵責」があなたを苦しめているのであれば、本当にそれが「良心」なのか、「良心」だと思っているのはなんでなのか、考えてみてください。
5. 良心の呵責を使った名言
5-1. 名言1
「良心の呵責とは、子供の時からぼくにとっては、他人の眼、社会の罰にたいする恐怖だけだったのである」
(遠藤周作『海と毒薬』)
5-2. 名言2
「不当に非難することより、不当に称賛してしまうことの方が、良心の呵責を呼び起こす。
おそらくそれは、不当に非難することよりも、
不当な称賛をすることの方が、私たちの判断力の欠如をあますところなくさらしてしまうからだろう」(ニーチェ)
5-3. 名言3
「つまり私には良心がないということを言いたいのである。
はじめからそんなものはなかった。
鞭影の恐怖、言いかえれば世の中から爪弾きされはせぬかという懸念、牢屋への憎悪、そんなものを人は良心の呵責と呼んで落ちついているようである」
6. 良心の呵責に苦しむ心理
「良心の呵責」は、これまで見てきたように、自分の行為に対して、良心が非難し、責め立てることです。
ここで問題になるのは、自分自身を責める「良心」とは、いったい何なのか、ということです。
6-1. これまでの経験の中で刷り込まれてきた価値観や道徳観
私たちの多くは、ほとんど意識しないまま、驚くほど多くの価値観や道徳観に縛られています。
日本に住む外国人が、通常の日本家屋であっても土足で生活しているのを見て、何とも言えない違和感を感じる人は多いでしょう。
畳の部屋に、自分も同じように土足で入るには、抵抗を感じない日本人の方が少ないかと思います。
私たちはこのように、生まれた場所や国、あるいはまた宗教などによって、独自の価値観を育んでいます。
長きにわたって自分に刷り込まれた感覚が「良心の呵責」として働くことは多いでしょう。
6-2. 親に繰り返し言われた言葉
親との関係に苦しんでいる人は多いですが、その苦しみをより深くしているのが「良心の呵責」であることは少なくありません。
「親の面倒は子供が見るべき」「親の言うことには従うべき」など、かならずしもそれが当てはまる場合でなくても、そうできない自分を責め、「良心の呵責」に苛まれている人は多いのです。
「おまえはバカだ」と繰り返し言われ、「自分はバカだ」と思っている人は、自分が能力を発揮すると、「良心の呵責」を覚えるかもしれません。
私たちの脳内は、時に、不合理な働きをするのです。
かならずしも合理的ではなく、誰のためにもなっていなくても、私たちはそれを「良心」と意識している可能性があります。
自分が感じている「良心の呵責」を一度、冷静に分析する必要がありそうです。
6-3. 脳内にある二つのシステム
近年、脳科学の進歩によって、人間の脳の働きが詳しくわかるようになってきました。
それによると、人間の脳内には、「自律的システム」と「分析的システム」という2つの異なるシステムが並行して存在し、それぞれが独自の動き方をしていることがわかっています。
「自律的システム」は刺激を自動的に、迅速に処理し、意識では制御できない反応を引き起こします。
それに対して「分析的システムは、言語や規則に基づく処理を行い、意識的に刺激を系統だてて制御するのです。
たとえば、自分の頭に生えている髪の毛を「汚い」と思わないのに対し、たとえ自分の髪の毛でも、食べ物に入っていると「汚い」と感じてしまうのは、脳内の「自律的システム」が、自分の身体の一部と見ることをやめ、自分とは異質の排除すべき「異物」として認知するからです。
あるいはまた、車を運転していて子供が飛び出すときに、とっさに急ブレーキを踏むことができるのも、「子供だ」「危ない」「ブレーキをかけなくては」と「分析的システム」が判断する前に、「自律的システム」が作動して、ブレーキを踏め、という信号を送っています。
この脳内の「自律的システム」は、非常に役に立つ反面、私たちの認知のゆがみも引き起こすのです。
「自律的システム」が、無意識的に誤った判断をくだし、「分析的システム」がその誤りを正す、ということが脳内でしばしば行われています。
たとえば「20%の人に暴力行為の再発が見られる」というより、「100人中20人の人が暴力行為を繰り返す」と言った方が、危険な印象を受けた人が多かった、という統計がありますが、これはどちらも同じことを言っているのは、冷静に考えればわかることです。
ですが、「自律的システム」は抽象的な20%という数値より、具体的な20人の方をリアルに思い描くことができるため、とっさにそちらの方が多い、と判断してしまうのです。
「自律的システム」が下した判断を、「分析的システム」が訂正しようとして、訂正がうまくいかないと、私たちの気持が落ち着かなくなったり、苦しくなったりします。
その状態を「認知不協和」と呼びます。
認知不協和が起こると、私たちは何とか正当化しようとします。
ちょうどイソップの寓話で、ブドウに届かなかったキツネが、「あれは酸っぱいにちがいない」と考えて自分を納得させようとするように。
私たちが無意識のうちに「良心」と判断しているのは、一種の「自律的システム」かもしれません。
もちろん社会のルールや、自分が選んだ宗教が「良心」の中身である場合もありますが、不合理で、認知のゆがみを引き起こし、結果的に私たちを苦しめている「良心」もあるのです。
「分析的システム」を使って、社会のルールや道徳に照らし合わせて、一度自分の「自律的システム」を分析してみてはどうでしょうか。
まとめ
ここでは「良心の呵責」とはどういう意味か、読み方や例文、類語や「良心の呵責」が出て来る名言などを見てきました。
それに加えて、私たちが「良心の呵責」を感じる心理も、脳のシステムと併せて、見ていきました。
「良心の呵責」があるから、私たちは社会のルールを守ったり、自分の好き勝手をしなかったり、人のためになるような行動をしています。
これは、「良心の呵責」のプラスの側面です。
反面、「良心の呵責」のせいで、私たちは苦しんだり、自己嫌悪に陥ったり、自分の力が十分に発揮できなかったりもしています。
そのとき、私たちを苦しめている「良心」の正体とは何なのでしょうか。
本当は「良心」などではなく、非合理な「認知のゆがみ」を正当化しようとしているのではないでしょうか。
「良心の呵責」を感じて、ある行動を反省し、軌道修正することで、気持ちもよくなり、周囲との関係も良くなった、というのであれば、「良心の呵責」はおおいに役に立っています。
しかし、「良心の呵責」があなたを苦しめているのであれば、本当にそれが「良心」なのか、「良心」だと思っているのはなんでなのか、考えてみてください。
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