人間も生物である以上、いつかは寿命が尽きて死ぬことになりますが、死ぬことはやはり怖いものです。
「死ぬのが怖いと思う心理・理由」には、どのようなことがあるのでしょうか?「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツや「宗教における死後の世界」についても解説していきます。
- 死ぬのが怖いと考えたことはありますか?
- 死ぬのが怖いと思う心理・理由
- 「死後の世界」とは何か?
- 死後の世界はおそらく「無・真っ暗」である
- 人間は死ぬのが怖いのではなく死ぬ過程が怖いのではないか?
- 「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法
- まとめ
1. 死ぬのが怖いと考えたことはありますか?
あなたは死ぬのが怖いと考えたことがあるでしょうか?人間も動物の一種として生存本能を持っているので、よほど精神的な苦悩が強くなければ、「死の恐怖」があることが当たり前なのです。
自分の年齢によっても「死のリアリティー」は変わってきますが、中年期以降の年代になってくると周囲の知人に病気・事故などで亡くなる人も少しずつ出てきて、「自分の死」について不安・恐怖・納得・諦観と共に考える機会も増えてくるでしょう。
人間が死ぬのが怖いと考えてしまうのはやはり、「死には苦痛・老い・弱気・孤独が伴うというイメージ」があるからです。
死ぬ時には病気にせよ事故にせよ殺人事件にせよ老衰にせよ、「生きていて元気な時期」と比較すると「苦痛・老い・気弱さ・孤独感(別れの感覚)などのネガティブな要素」が強まるのではないかというイメージが死の恐怖を呼び起こしているのです。
2. 死ぬのが怖いと思う心理・理由
死ぬのが怖いと思う心理・理由としては、以下のようなものを考えることができます。
2-1. 死ぬ時には耐えられないほどに強い苦痛があるに違いないという心理
死ぬのが怖いと思う心理・理由として、「死ぬ時には耐えられないほどに強い苦痛があるに違いないという心理」を上げることができます。
末期がんなどの病気で苦しみながら死んでいった親族、自動車事故で血まみれになって痛がりながら死んでいった被害者などを直接的・間接的に見聞きすることで、「死ぬということは痛くて怖いことなのだ」というネガティブなイメージが刷り込まれていきます。
死ぬまでの間に、自分では耐えられないほどの激しい痛みやつらさがあるのではないかという想像が、「死の恐怖感」をいっそう強いものにしてしまうのです。
病気・怪我・事故事件などで死んでいった人たちの苦痛について間接的に見聞きしたり、作り物のテレビドラマ・映画などで見たりするだけでも、「死ぬことに対する恐怖の心理」が強くなります。
2-2. 死んだら二度と生き返ることができず永遠の終わりになってしまうという理由
「死んだら二度と生き返ることができず永遠の終わりになってしまうという理由」も、死ぬのが怖いと思う心理・理由として代表的なものでしょう。
死んだら「永遠の終わり」になってしまい、自分自身の存在も自意識も「永遠の無」に還ってしまうというイメージが、人が死ぬのを恐れる理由になっているのです。
これは「人生はただ一回だけしかない(=一度死ねば生き返って人生の続きのやり直しをすることは絶対にできない)」という厳然たる現実に基づいた死の恐怖なのです。
一度死んでしまうと、永遠に何も分からない(自分というものさえ無い)「死後の無の状態」に置かれ続けるというイメージが、死の恐怖感の根本にあります。
2-3. 死んだら家族にも恋人にも友達にも二度と会えない孤独な状況になるという理由
死ぬのが怖いと思う心理・理由として、「死んだら家族にも恋人にも友達にも二度と会えない孤独な状況になるという理由」があります。
人間世界では、死んで火葬や土葬にされた人が、しばらく経ってから生き返ったという実例は(宗教説話を除いて)一件もありません。
そのため、死んだら家族にも恋人にも友達にも二度と会えない孤独な状況になるという事実が、人の死に対する恐怖感を強くしているのです。
死んでしまったら、親しく付き合っていた人たちと二度とおしゃべりをしたり一緒にどこかに出かけたりすることもできなくなる、絶対的な孤独状況に追い込まれるというイメージが「死を恐れる理由」になっています。
2-4. 死んだら自我意識も五感もなくなり自分という主体が完全消滅してしまうという心理
「死んだら自我意識も五感もなくなり自分という主体が完全消滅してしまうという心理」を、死ぬのが怖いと思う心理・理由の一つとして上げることができます。
死ぬのが怖い心理は、「死んだら自我が無くなって自分が誰かも分からなくなること」や「死んだら五感で何も感じられなくなって何の楽しみも無くなること」と深く関係しているのです。
死んだら自分というものがなくなり、周囲にいる他者やモノを何も認識できなくなるということが、死の恐怖を生んでいるのです。
3. 「死後の世界」とは何か?
世界宗教である仏教やキリスト教が教えている「死後の世界」とは、どのようなものなのでしょうか?
3-1. 仏教
仏教で教えている「死後の世界」は、「因果応報(カルマ)・輪廻転生(六道輪廻)」と「西方極楽浄土・地獄」になります。
仏教の創始者であるブッダ(釈迦)は、死後の世界について「無記」として何も語らなかったと伝えられています。
仏教の宗派によっても死後の世界の捉え方は異なっており、輪廻転生をベースにすれば生前の業(カルマ、行為)に基づく因果応報によって、六道の世界に生まれ変わるだけなので「死後の世界は無い」ということになります。
禅宗宗派もブッダと同じく、死後の世界について考えるなというスタンスです。
仏教は宗派で「死後の世界」が異なるが基本は「浄土(天国)」に行ける
法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗では、南無阿弥陀仏という念仏を唱えるだけで、阿弥陀仏の無限のご利益によって、死後に必ず西方にある「極楽浄土」に行けるとされています。真言宗では大日如来のいる「密厳浄土」へ行くとされ、日蓮宗では釈迦仏のいる「霊山浄土」に行くことができるとされ、仏教は宗派によって「死後の世界」のビジョンが異なるものの、基本的には天国のような「浄土」に行けるとされています。
3-2. キリスト教
キリスト教で教えている「死後の世界」の中心にあるのは、「最後の審判」と「天国・煉獄・地獄」でしょう。
キリスト教の信者は死んですぐに天国や地獄に行くわけではなく、神による「最後の審判」の日が来るまで待機させられます。
キリスト教では、「死」は人間の原罪がもたらした刑罰であり、天国に送られた者のみが「肉(生命)の復活」の可能性を持っています。
人類の贖罪のために十字架にかかって死んだイエス・キリスト(神)が復活をして地上によみがえる時、「最後の審判」が行われます。
最後の審判では「今生きている人たち」と「死んだ人たち」の中で、天国に行く人と地獄に行く人が分けられるとされています。
そして、天国に行った人は「肉(生命)の復活+新世界における永遠の生命」の可能性を神から授けられることになるのです。
「煉獄」というのは、罪を犯したキリスト教徒が、その贖罪・罪の浄化のために苦痛の責めを受ける場所です。
4. 死後の世界はおそらく「無・真っ暗」である
宗教の物語的な教義や独自の世界観では、「死後の世界」が色々な形で表現されていますが、現代の「科学的世界観・唯物論的な人間観」を前提にする限りは、「死後の世界」というものは存在しないということになります。
科学的世界観・唯物論では、「客観的に観察・検証できる対象+(電子顕微鏡などの観察道具を使うとしても)目で見ることのできる世界やモノ」が全てになります。
そのため、一度死んだ人間が誰ひとりとして生き返ったことがなく、「死後の世界」について証言したこともないという客観的事実から、科学的には「死後の世界」は存在せず、死んだ本人にとっては死後の世界は「永遠の無」に等しいという結論になってきます。
4-1. 死後の世界は科学的には「無」だが、宗教論・スピリチュアル論的には「存在する可能性」はある
厳密には、「死後の世界(=観察方法がない目に見えない世界)については検証手段がないだけである」という宗教やスピリチュアル理論からの反論も有り得ます。
「目に見えない世界」や「死んだ者だけにしか行けない世界(二度とこの世に戻ってくることもできない世界)」があるのか無いのかという命題については、厳密には科学的な方法では検証の仕様がないからです。
ただ科学的な世界観と方法に限定すれば、死後の世界はおそらく「(自我・脳が消滅した)完全な無=認識不能な真っ暗の状態」というのに近いということは言えるでしょう。
5. 人間は死ぬのが怖いのではなく死ぬ過程が怖いのではないか?
科学的世界観に依拠する限りは、人間が死ねば自我意識(意識の基盤の脳)が消滅して何も分からなくなり、「永遠の無の世界=自意識も知覚も時間もない真っ暗な状態」に行くだけなので、「死」そのものは怖いものではないでしょう。
その観点からすると、人間は「死ぬこと自体」が怖いのではなく、「死ぬ過程(死ぬプロセス)」のほうが怖いのではないかということになってきます。
例えば、がんなどの病気に罹って、副作用の強いがん治療を受けながら闘病している期間には、耐え難いほどの苦痛や絶望に襲われる可能性があり、がんで死んだ人も「死んだ結果」よりも「死ぬまでの過程」のほうに痛み・恐怖があったと解釈することができるからです。
事故で大怪我をして死んだ人、集団リンチ事件で殺された人などにしても、一瞬で即死したのでなければ、死ぬ過程に恐怖を感じやすいと言えるでしょう。
6. 「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法
「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツや方法としては、以下のようなものがあります。
6-1. 死後の世界としてあるとされる「天国・浄土」を信じる
「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法として、「死後の世界としてあるとされる「天国・浄土」を信じる」ということが上げられます。
死ぬのが怖いという代表的な理由として、「一回限りの人生が永遠に終わってしまうから+二度と生き返ることができず自分が誰かさえも分からなくなるから」ということがあります。
この死の恐怖を克服するためには、「死んだ後にも世界が続くこと」を信じることが有効になります。
仏教が説いている「西方極楽浄土・霊山浄土」、キリスト教が説いている「天国・肉(生命)の復活・永遠の生命」を信じるようにしてみましょう。
6-2. 自分の人生の意味や人間関係の価値について十分に考えて親しい人とも話し合う
「自分の人生の意味や人間関係の価値について十分に考えて親しい人とも話し合う」ということが、「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服する有力なコツ・方法になります。
あなたがまだ若くて差し迫った死のリスクがないのであれば、死ぬことが怖いという気持ちを短期間で今すぐに克服する必要はないのです。
現代人は特別な病気や事件事故がなければ、約70〜90歳程度までは生きられますから、それまでの間に「自分の人生の意味+人間関係の価値」について十分に考えて納得・受容できれば、死の恐怖は自然に克服することができるのです。
家族や親しい人と「有限の人生の意味や自分の価値」について話し合うことでも死の恐怖は和らぎます。
6-3. 死後の世界で親を含むご先祖様といずれ再会できると信じる
「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法として、「死後の世界で親を含むご先祖様といずれ再会できると信じる」ということを上げられます。
死んだ後に永遠に孤独になってしまうという思い込みが、死ぬことの恐怖を強めています。
「お盆にご先祖様が帰ってくる」という日本の伝統的な祖先崇拝では、死後の世界で親兄弟やご先祖様と再会できると考えてきました。
死後の世界でそういった親しい人たちと再会してまた賑やかで楽しい時間を過ごせると考えることで、死の恐怖を克服できるでしょう。
6-4. 死を「苦痛・絶望のピーク」ではなく「永遠の安らぎ・眠り」として解釈する
死を「苦痛・絶望のピーク」ではなく「永遠の安らぎ・眠り」として解釈することが、「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法の一つになります。
死ぬことの恐怖感は、死を「苦痛・絶望のピーク」として解釈することで強まってしまいます。
しかし、視点を変えれば、自我意識が無くなって五感も失ってしまう死は、「永遠の安らぎ・眠り」としてポジティブに解釈することもできます。
死によって今までのあらゆる苦悩やストレスから完全に解き放たれるというように考えてみて下さい。
6-5. 人生は終わりのある有限なものだからこそ、後悔しないように一生懸命に生きる価値があると考える
「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法として、「人生は終わりのある有限なものだからこそ、後悔しないように一生懸命に生きる価値があると考える」ということがあります。
死ぬのが怖いのであれば、永遠の生命があればそれで幸せになれるのでしょうか。
無論、「永遠の生命が欲しい」という欲張りな人もいるかもしれませんが、人間は「有限の人生の時間」を生きているからこそ、後で後悔しないで済むように、今この瞬間を一生懸命に生きようとすることができるのです。
「終わりがあるからこそ、今を一生懸命に頑張る価値がある」という方向に思考を転換していきましょう。
まとめ
死ぬのが怖いと思う心理・理由には、「死ぬ時には耐えられないほどに強い苦痛があるに違いないという心理」「死んだら自我意識も五感もなくなり自分という主体が完全消滅してしまうという理由」などがあります。
「死ぬのが怖いと思う気持ち」を克服するコツ・方法として、「死後の世界としてあるとされる「天国・浄土」を信じる」「自分の人生の意味や人間関係の価値について十分に考えて親しい人とも話し合う」などを紹介しました。
この記事では世界宗教である仏教とキリスト教の「死後の世界」の捉え方についても分かりやすく解説しています。
「死ぬのが怖いと思う心理」について詳しく調べたい方は、ぜひこの記事を参考にしてみて下さい。
3. 「死後の世界」とは何か?
世界宗教である仏教やキリスト教が教えている「死後の世界」とは、どのようなものなのでしょうか?
3-1. 仏教
仏教で教えている「死後の世界」は、「因果応報(カルマ)・輪廻転生(六道輪廻)」と「西方極楽浄土・地獄」になります。
仏教の創始者であるブッダ(釈迦)は、死後の世界について「無記」として何も語らなかったと伝えられています。
仏教の宗派によっても死後の世界の捉え方は異なっており、輪廻転生をベースにすれば生前の業(カルマ、行為)に基づく因果応報によって、六道の世界に生まれ変わるだけなので「死後の世界は無い」ということになります。
禅宗宗派もブッダと同じく、死後の世界について考えるなというスタンスです。
仏教は宗派で「死後の世界」が異なるが基本は「浄土(天国)」に行ける
法然の浄土宗・親鸞の浄土真宗では、南無阿弥陀仏という念仏を唱えるだけで、阿弥陀仏の無限のご利益によって、死後に必ず西方にある「極楽浄土」に行けるとされています。真言宗では大日如来のいる「密厳浄土」へ行くとされ、日蓮宗では釈迦仏のいる「霊山浄土」に行くことができるとされ、仏教は宗派によって「死後の世界」のビジョンが異なるものの、基本的には天国のような「浄土」に行けるとされています。
3-2. キリスト教
キリスト教で教えている「死後の世界」の中心にあるのは、「最後の審判」と「天国・煉獄・地獄」でしょう。
キリスト教の信者は死んですぐに天国や地獄に行くわけではなく、神による「最後の審判」の日が来るまで待機させられます。
キリスト教では、「死」は人間の原罪がもたらした刑罰であり、天国に送られた者のみが「肉(生命)の復活」の可能性を持っています。
人類の贖罪のために十字架にかかって死んだイエス・キリスト(神)が復活をして地上によみがえる時、「最後の審判」が行われます。
最後の審判では「今生きている人たち」と「死んだ人たち」の中で、天国に行く人と地獄に行く人が分けられるとされています。
そして、天国に行った人は「肉(生命)の復活+新世界における永遠の生命」の可能性を神から授けられることになるのです。
「煉獄」というのは、罪を犯したキリスト教徒が、その贖罪・罪の浄化のために苦痛の責めを受ける場所です。
4. 死後の世界はおそらく「無・真っ暗」である
宗教の物語的な教義や独自の世界観では、「死後の世界」が色々な形で表現されていますが、現代の「科学的世界観・唯物論的な人間観」を前提にする限りは、「死後の世界」というものは存在しないということになります。
科学的世界観・唯物論では、「客観的に観察・検証できる対象+(電子顕微鏡などの観察道具を使うとしても)目で見ることのできる世界やモノ」が全てになります。
そのため、一度死んだ人間が誰ひとりとして生き返ったことがなく、「死後の世界」について証言したこともないという客観的事実から、科学的には「死後の世界」は存在せず、死んだ本人にとっては死後の世界は「永遠の無」に等しいという結論になってきます。
4-1. 死後の世界は科学的には「無」だが、宗教論・スピリチュアル論的には「存在する可能性」はある
厳密には、「死後の世界(=観察方法がない目に見えない世界)については検証手段がないだけである」という宗教やスピリチュアル理論からの反論も有り得ます。
「目に見えない世界」や「死んだ者だけにしか行けない世界(二度とこの世に戻ってくることもできない世界)」があるのか無いのかという命題については、厳密には科学的な方法では検証の仕様がないからです。
ただ科学的な世界観と方法に限定すれば、死後の世界はおそらく「(自我・脳が消滅した)完全な無=認識不能な真っ暗の状態」というのに近いということは言えるでしょう。
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