他人に優しくすることはとても良いことです。
しかし、本当の優しさとはそもそも一体なんなのでしょうか?
大人になってもともすればわからなくなってしまいます。
そこで今回は、本当の優しさについて解説していきます。
- 本当の優しさとは?
- 本当の優しさの類語や似た言葉
- 本当の優しさではない優しさとは?
- 本当の優しさの条件
- 本当の優しさを持つ人の特徴
- 優しさに関する名言
- まとめ
1. 本当の優しさとは?
本当の優しさ、とはよく聞く言葉です。
しかし、その意味は多岐にわたり、とてもあいまいな概念となり果てています。
そもそも優しさとは、決して一元的なものでなく、下記4つの層があります。
包括する層の順番は異なりますが、優しさという概念を理解するため、わかりやすい順に解説していきます。
1-1. 他者への優しさ
一番わかりやすいのが他人に発揮する優しさです。
特にここでは、一対一の関係でできる優しさについて言います。
本当の優しさを実行するにあたり、最も簡単でやりやすいコミュニケーションと言えるでしょう。
ほかの項目で述べる優しさの対象については、あまりに抽象的過ぎてイメージすらつかないかもしれません。
しかし、他者への優しさは、とにかく目の前にいる人に親切にすることであり、ほかの選択の入る余地はありません。
疲れたパートナーでも、横断歩道を渡るおじいちゃんでも、電車の中で泣く赤ちゃんでも良いです。
それらの見える対象に行うことが「他者への優しさ」です。
1-2. 集団内への優しさ
さて、同じく他者に対してでも、対象人数が複数になったのが「集団内への優しさ」です。
集団の複数人の人間に対しての直接的な親切ももちろんなのですが、集団を維持することや集団への利益に対することへの親切も含まれてきます。
例えば、会社へお土産のお菓子を持っていくときに人数分持っていくのは当然です。
しかし、その当日に新入社員が入ったため、お菓子が一つ足りなくなったとします。
その帳尻を合わせるために別なお菓子を渡す…ということは、その「新入社員」への優しさのみならず、会社の雰囲気を良くし、円滑にする「集団の維持」に対しての配慮です。
関係が複数になっただけではなく、関係の間に横たわる「コト」に対しても優しくするのが集団内への優しさです。
1-3. 自己への優しさ
本来は優しさの段階の一番最初に来るべき項目が「自己への優しさ」です。
これは、身体、精神、所有物、そして社会的立場など、個人的なすべてに紐づくものを言います。
他者への優しさと違い、自己への優しさは与えるものではなく自己発生させたうえで与えるもの。
まるでかたつむりが自らの中で受胎するように、自分で自分を慈しむことです。
普段は全く意識していないでしょうが、ヒトという動物として一番基本の優しさです。
なぜなら、自己への優しさを与えること、受け取ることができない人間は、それ以降の他者への優しさ、集団内への優しさ、そして社会的優しさを発生させることすらできないからです。
1-4. 社会全体への優しさ
集団への優しさがさらに拡大したのが社会全体への優しさです。
これは、国であったり、ひいては世界全体と言っても過言ではないでしょう。
例えばゴミをポイ捨てしないことは、ポイ捨てされたゴミを拾う労力削減につながり、その労力削減によって浮いた労力が別のもっと有意義なことに使えるといった、壮大な優しさの連鎖につながります。
この優しさは、自分の目に見えるものでも、コントロールできるものでもありません。
そのため、一番わかりづらくやりがいのない優しさと言えます。
しかし、この優しさは動物としてのヒトが種として繁栄していくために不可欠なもの。
自分で把握できる優しさだけを発揮していては、自分の見えない場所に優しさを施すことはできません。
優しさを知らない誰かに託す行為、それが社会全体への優しさと言えます。
2. 本当の優しさの類語や似た言葉
本当の優しさとは、その意味の多彩さから類語もたくさん存在します。
しかし、どれもあくまで優しさとは少し違った感情のこと。
そのいくつかをご紹介します。
2-1. 真実の愛
真実の愛とは、短所を許し補い、長所と関わる力を言います。
本当の優しさとは与えることですが、真実の愛とは相互の感情交換のことです。
双方とも、対象への深い愛情が必要なところは共通しています。
2-2. 慈愛
常に慈しみを注ぎ、かわいがる心のことを慈愛と言います。
特に親がこどもに与える愛情のことを指すことが多いです。
生命として、種として、自分の跡を継ぐ存在へ注ぐ愛情は、人類が発祥してから変わらない感情です。
本当の優しさは、慈愛の中から生まれるのでしょう。
2-3. 愛着
本当の優しさと似て非なるものが愛着です。
慣れ親しんだものに深く心を惹かれ、離れがたく感じることを言います。
一見、優しさを含んでいるようにも見えますが、実際は執着心であったり独占欲であったりと優しさを発揮するには偏っている感情のことです。
3. 本当の優しさではない優しさとは?
優しさの本質は、対象の未来を想像し、自分の考えるできる限りの親切を施すことです。
しかし、自己の思想が入るがゆえに、その考え方のゆがみから誤った方向の優しさを発揮してしまうことがあります。
また、優しさの度合いを誤ったり、対象を限定することも本当の優しさとは言えません。
3-1. その人のためにならない優しさ
他者に対する優しさで、どうしても行いがちなのがその人のためにならない親切。
これも種類があり、その人が望んでいないのに図々しく世話を焼くおせっかい、選択権を与えず、自分の言うなりになるよう誘導する支配欲求、一見親切に見えるけれど解決にも解消にも至らない中途半端な行為などがあります。
これはいずれも、「他者に親切にしている自分」という自分の欲求を満たすための行為です。
対象が他者であることは、その困っている他者からの承認を得るためのパフォーマンスであると言えます。
もちろん、このような優しさは本当の優しさではありません。
3-2. 身内の関係にのみ引きこもる優しさ
対象が複数人にわたる時、そのグループ内のみに優しくすることが「身内の関係にのみ引きこもる優しさ」です。
これは対象を制限したものであり、逆に言えばその対象グループに入っていない人間には優しくしないというルールが設けられた優しさと言えます。
これは、想定できる見返りを要求しているからです。
同じグループ内にいると、こちらからした親切をまったく同じ形で返してもらえます。
それは安心できる承認のされ方であり、自らが認められていることを確認できる現象なのです。
そのため、自分の会社の人間には挨拶をしても、同じエレベーターに乗り合わせた掃除のおばさんには挨拶をしないというようなことが起こります。
3-3. 自らを省みない優しさ
他人にはとも優しいのに、自分を大切にできない。
仕事を引き受けすぎて残業続きになってしまい、体を壊してしまった。
これも、優しいとは言えません。
なぜなら、生き物の基本である自己への優しさを発揮できていないからです。
他者へ優しくできているように見えるのは、周囲との摩擦を避けているからです。
断るより、自分が困っても受けてしまった方がもめごとが少ないという思考なのです。
その結果、自らに優しくないことがダイレクトに結果に出て、自らのことを傷つけてしまうことになるのです。
自己へ優しくできない事例は増え続けており、社会的に言えば過労死であったり自殺、個人的に言えば自信がないなどの症状が叫ばれるようになっています。
3-4. 想像力の無い優しさ
特に集団への優しさ、社会への優しさを発揮しようと思ったとき、想像力を働かせることはとても重要になってきます。
複数の関係性の中では、誰かへの親切が誰かへの攻撃に転じてしまう可能性もあるからです。
例えば保育園に入れるなんてかわいそう、という赤ちゃんへの優しさは、保護者の心情をまるで汲まないため保護者には苦痛でしかありません。
とても限定された優しさを発揮するとき、その優しさの裏側で痛みを被る人がいないか想像すること、そしてもしいるとしたらその人に知られないよう行う配慮をする必要があります。
4. 本当の優しさの条件
優しさとは、人編に憂うと書きます。
憂うとはそもそも、人が喪に服してたたずむ姿を表しており、そこに人を加えたのが優しいという文字。
悲しいことに共感し、しゃしゃり出るわけではなくたたずむ人こそが本来の意味で優しい人です。
その由来通り、本当に優しいこととは自らへの影響を勘定には入れません。
4-1. 時間軸をイメージできる
その場のみの親切を行うことは、浅慮な人間がやりがちな行為です。
例えば親が、こどもが泣くからと言ってすぐにお菓子などを買い与えるなどです。
その場を収めたいがゆえにやってしまいがちな優しさですが、これはその後のこどもの性格形成などに悪影響を及ぼします。
それはつまり、その子供のためにならない、本当に優しくはできていないということです。
その後1年は、ひょっとしたらお互い叱ったり泣いたりといった摩擦を避けることができて、すぐに要求を満たすことも優しさであると思えるかもしれません。
しかし、5年後はどうでしょう。
10年後、30年後はどうでしょうか。
時間をイメージせずに行う優しさは、無責任な優しさと言えます。
4-2. 想像力を駆使する
社会的な優しさを発揮するためには想像力が必要です。
社会全体へ優しくするためには、優しさのボールを知らない人に託すことが必要になります。
例えば開けっ放しになっていた駅のトイレの扉を閉めることは、一見すぐに誰かが喜ぶことはありません。
しかし、あなたが立ち去った3時間後に、掃除に来た清掃員が作業がしやすくなり、気分が良くなって飲食店に入り、お金を落として経済が回るかもしれない。
こういったことを末端まで正確に想像することは不可能ですが、想像力を働かせなければ発端の優しさを行うことはできません。
4-3. 優しさを発揮することで被る被害を考えない
自分と他人は違います。
自分が想定したことと相手が考えていることに食い違いがあり、優しくしたけれどおせっかいと受け取られてしまうこともあるでしょう。
また、優しくしている途中で事態が変わり、結果として逆の印象を与えてしまうこともあるでしょう。
しかし、本当の優しさを発揮するためにはその結果を恐れてはいけません。
優しさとは、結果ではなく経過です。
本当に相手のことを想い、相手が望むと思ったことを行う場合、相手にどのように思われてもやってあげることが本当の優しさなのです。
4-4. 自己犠牲と優しさをはき違えない
自己犠牲と優しさは、似ているようで全く異なるものです。
優しさのレイヤーは、自己から他者へ、他者からグループへ、グループから社会へと広がっていきます。
もっとも根幹となる当人に優しくできていない自己犠牲は、イレギュラーな優しさであり本当の優しさではありません。
言うなれば反則の優しさと言ってもいいでしょう。
自分の身を削っている分、ほかの人より優しさに振り分ける部分が多いのですから、それを優しい人、慈悲深い人ととらえるのは違います。
まずは、自分をいたわること。
自分のできる範囲の親切を行うこと。
限度なしの優しさより、節度を持った優しさこそ本当の優しさと認識するべきです。
5. 本当の優しさを持つ人の特徴
本当の優しさを持つ人には特徴があります。
それは、どれも明るく健全な精神性を持っていることにより生まれてきます。
5-1. 自信のある人
いつでも自信たっぷりの人は、本当の優しさを持てる人間です。
自信たっぷりと言っても、仕事ができて優越感を持っていそうな人であったり、美しい外見を持って生き生きとしている人という意味ではありません。
毎日を穏やかに暮らし、自分のやっていること、置かれている環境に迷いを持たず、自らの存在に絶対的な信頼を置いている人こそ、ここで言う「自信のある人」という特徴に該当します。
自信のある人は、心に余裕を持っています。
些末なイレギュラー事態や予定変更なども受け入れることができるのです。
そういった余裕こそ、本当の優しさを発揮できる条件です。
心に余裕がなければ、想像力も死んでしまいます。
5-2. 共感力の高い人
先ほど優しいという漢字の由来について触れましたが、積極的な優しさばかりが優しさではありません。
ただ共感し、話を聞くことだって、本当の優しさになり得るのです。
人間は困っていることをすぐに解決したいと考えている人ばかりではありません。
心の負荷を減らすため、愚痴という形で吐き出して、ストレス解消をしている人は多いものです。
そんな人へ、いろいろと想像力を働かせて解決案を出してあげることは逆効果です。
ただ聞いてほしい人へは、ただ聞いてあげる。
その話を聞いて、自分のことのように共感ができる人であればなおのこと良いでしょう。
消極的な優しさの形です。
しかし、求めている人にとっては本当の優しさと受け取ってもらえます。
5-3. 物事を合理的に考えることができる人
意外かもしれませんが、合理性は優しさと相反するものではありません。
合理主義というと計算高く、優しさなど持ち合わせていないイメージを与えてしまいますが、そんなことはありません。
そもそも、優しさとは究極の合理思考。
優しくすることによりメリットがあるから、ヒトという生命体は優しさという手段を獲得したのです。
今、ここで優しくすることによってこんなことが起こり、それはひるがえっては自分のメリットにもなり得る。
そんな考え方ができる人は、人間という種の持つ正しい優しさを持っていると言えます。
実際、根拠のないおせっかいよりは合理的に考えられた親切の方が的確で、ひいてはその人のためになります。
5-4. 対象に深い愛情を持っている人
ここで言う愛情とは、親子の愛情でも、恋人、友人、または食べ物や趣味など多岐にわたります。
深い愛情を持っている人が愛情をはき違えることはあまりありません。
愛情ゆえ、対象のことを考え尽くしているからです。
例えば、とても好きなミュージシャンが結婚すると知った時に、SNSなどを使って祝福するなどの行為も本当の優しさです。
中途半端な愛情で接した場合、ここを誤ってしまうことがあります。
先の例で言えば、好きなミュージシャンのCDの不買運動をしたり、SNSで中傷するなどです。
もちろん、これは優しさではありません。
しかし恐ろしいことに、これを優しさと勘違いしてしまうこともまた愛情によって起こり得るのです。
6. 優しさに関する名言
優しさとは万国共通の概念であるため、古今東西様々な人が名言を残しています。
そのほんの一部をご紹介します。
・優しさほど強いものはなく、本当の強さほど優しいものはない (ラルフ・ソックマン)
・不動の心構えの人だけがほんとうの優しさを持つことができる(ラ・ロシュフコー)
・優しい言葉で説得できない人はいかつい言葉でも説得できない(アントン・チェーホフ)
・本当の優しさとは相手を理解し相手の心情を思いやる想像力を持つことです(瀬戸内寂聴)
まとめ
本当の優しさは、固定のものではありません。
時間の流れ、時代の流れにより、それは流動的に変化していきます。
また、自分の立場や年齢によっても変わってくるでしょう。
しかし、その変化に疲れ、考え方を硬化してしまうことはよくありません。
本当の優しさとは、常に追い求め、アップデートされていくものなのです。
3. 本当の優しさではない優しさとは?
優しさの本質は、対象の未来を想像し、自分の考えるできる限りの親切を施すことです。
しかし、自己の思想が入るがゆえに、その考え方のゆがみから誤った方向の優しさを発揮してしまうことがあります。
また、優しさの度合いを誤ったり、対象を限定することも本当の優しさとは言えません。
3-1. その人のためにならない優しさ
他者に対する優しさで、どうしても行いがちなのがその人のためにならない親切。
これも種類があり、その人が望んでいないのに図々しく世話を焼くおせっかい、選択権を与えず、自分の言うなりになるよう誘導する支配欲求、一見親切に見えるけれど解決にも解消にも至らない中途半端な行為などがあります。
これはいずれも、「他者に親切にしている自分」という自分の欲求を満たすための行為です。
対象が他者であることは、その困っている他者からの承認を得るためのパフォーマンスであると言えます。
もちろん、このような優しさは本当の優しさではありません。
3-2. 身内の関係にのみ引きこもる優しさ
対象が複数人にわたる時、そのグループ内のみに優しくすることが「身内の関係にのみ引きこもる優しさ」です。
これは対象を制限したものであり、逆に言えばその対象グループに入っていない人間には優しくしないというルールが設けられた優しさと言えます。
これは、想定できる見返りを要求しているからです。
同じグループ内にいると、こちらからした親切をまったく同じ形で返してもらえます。
それは安心できる承認のされ方であり、自らが認められていることを確認できる現象なのです。
そのため、自分の会社の人間には挨拶をしても、同じエレベーターに乗り合わせた掃除のおばさんには挨拶をしないというようなことが起こります。
3-3. 自らを省みない優しさ
他人にはとも優しいのに、自分を大切にできない。
仕事を引き受けすぎて残業続きになってしまい、体を壊してしまった。
これも、優しいとは言えません。
なぜなら、生き物の基本である自己への優しさを発揮できていないからです。
他者へ優しくできているように見えるのは、周囲との摩擦を避けているからです。
断るより、自分が困っても受けてしまった方がもめごとが少ないという思考なのです。
その結果、自らに優しくないことがダイレクトに結果に出て、自らのことを傷つけてしまうことになるのです。
自己へ優しくできない事例は増え続けており、社会的に言えば過労死であったり自殺、個人的に言えば自信がないなどの症状が叫ばれるようになっています。
3-4. 想像力の無い優しさ
特に集団への優しさ、社会への優しさを発揮しようと思ったとき、想像力を働かせることはとても重要になってきます。
複数の関係性の中では、誰かへの親切が誰かへの攻撃に転じてしまう可能性もあるからです。
例えば保育園に入れるなんてかわいそう、という赤ちゃんへの優しさは、保護者の心情をまるで汲まないため保護者には苦痛でしかありません。
とても限定された優しさを発揮するとき、その優しさの裏側で痛みを被る人がいないか想像すること、そしてもしいるとしたらその人に知られないよう行う配慮をする必要があります。
4. 本当の優しさの条件
優しさとは、人編に憂うと書きます。
憂うとはそもそも、人が喪に服してたたずむ姿を表しており、そこに人を加えたのが優しいという文字。
悲しいことに共感し、しゃしゃり出るわけではなくたたずむ人こそが本来の意味で優しい人です。
その由来通り、本当に優しいこととは自らへの影響を勘定には入れません。
4-1. 時間軸をイメージできる
その場のみの親切を行うことは、浅慮な人間がやりがちな行為です。
例えば親が、こどもが泣くからと言ってすぐにお菓子などを買い与えるなどです。
その場を収めたいがゆえにやってしまいがちな優しさですが、これはその後のこどもの性格形成などに悪影響を及ぼします。
それはつまり、その子供のためにならない、本当に優しくはできていないということです。
その後1年は、ひょっとしたらお互い叱ったり泣いたりといった摩擦を避けることができて、すぐに要求を満たすことも優しさであると思えるかもしれません。
しかし、5年後はどうでしょう。
10年後、30年後はどうでしょうか。
時間をイメージせずに行う優しさは、無責任な優しさと言えます。
4-2. 想像力を駆使する
社会的な優しさを発揮するためには想像力が必要です。
社会全体へ優しくするためには、優しさのボールを知らない人に託すことが必要になります。
例えば開けっ放しになっていた駅のトイレの扉を閉めることは、一見すぐに誰かが喜ぶことはありません。
しかし、あなたが立ち去った3時間後に、掃除に来た清掃員が作業がしやすくなり、気分が良くなって飲食店に入り、お金を落として経済が回るかもしれない。
こういったことを末端まで正確に想像することは不可能ですが、想像力を働かせなければ発端の優しさを行うことはできません。
4-3. 優しさを発揮することで被る被害を考えない
自分と他人は違います。
自分が想定したことと相手が考えていることに食い違いがあり、優しくしたけれどおせっかいと受け取られてしまうこともあるでしょう。
また、優しくしている途中で事態が変わり、結果として逆の印象を与えてしまうこともあるでしょう。
しかし、本当の優しさを発揮するためにはその結果を恐れてはいけません。
優しさとは、結果ではなく経過です。
本当に相手のことを想い、相手が望むと思ったことを行う場合、相手にどのように思われてもやってあげることが本当の優しさなのです。
4-4. 自己犠牲と優しさをはき違えない
自己犠牲と優しさは、似ているようで全く異なるものです。
優しさのレイヤーは、自己から他者へ、他者からグループへ、グループから社会へと広がっていきます。
もっとも根幹となる当人に優しくできていない自己犠牲は、イレギュラーな優しさであり本当の優しさではありません。
言うなれば反則の優しさと言ってもいいでしょう。
自分の身を削っている分、ほかの人より優しさに振り分ける部分が多いのですから、それを優しい人、慈悲深い人ととらえるのは違います。
まずは、自分をいたわること。
自分のできる範囲の親切を行うこと。
限度なしの優しさより、節度を持った優しさこそ本当の優しさと認識するべきです。
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