厄除けやお祓い(祈願)を受けたい人の中には、厄年や合格祈願といったものの他に、「何か悪いものでも憑いているのではないか?」と悩んでいる人もいると思います。
そんな時はどうしたら良いのでしょうか?よくテレビなどでは霊能者と名乗る人が霊を祓っていますが、有名な霊能者を知っている人は少ないと思います。
また、法外なお金を払わせられたり、効果が無かったりしても困ります。
自分では悪い物(霊等)が取れたかどうかわからないので、その霊能者に本当に力がある人かどうかの見分けが、普通の人にはつかないのです。
そして、実際霊能者にも上から下まで、その力も実に様々なのが実情です。
悪い物を祓うのに、昔から日本人は神社やお寺でお祓いをして貰いました。
神社やお寺には神様や仏様がいらっしゃいます。
人間より尊い存在の方に祓って頂ければ安心です。
また、神社やお寺の境内には結界が張られているのも安心です。
では、秋田県でお祓いをするのにおすすめの神社やお寺をご紹介しましょう。
- 三皇熊野神社
- 土崎神明社
- 太平山三吉神社総本宮
- 日吉神社
- 秋田県護国神社
- 総社神社
- 彌高神社
- 東館神社
1. 三皇熊野神社
ご祭神は本宮、里宮共に天照大御神、伊邪那岐大神、伊邪那美大神、須佐之男命を主祭神に、配神として稲荷大神と八幡大神をお祀りしています。
「六郷郡邑記」の1730年には、当社は「三光宮」との記述があり、「遊覧記」の1815年には「竹原三光宮トテ日月星ヲ斎クニ云々」との記述があり、古くから三光大神と呼ばれています。
ご神紋は三つの輪で、これは「日・月・星」の3つの光を表しており、昔から神前に額づいて祈願を受けると、運命が光り輝くと伝えられています。
また、当社が秋田藩主佐竹氏の久保田城の南西、つまり裏鬼門の方角にある為、特に鬼門・方位除け、厄除、災難除けの神社として崇敬されてきました。
ご祈祷の申し込みは9時から16時半までとなっています。
都合により祈祷できない場合があるので、予約をすると確実です。
2. 土崎神明社
ご祭神は天照大御神です。
創建は1620年に土崎の氏神様として祀られていた神明様を現在地に遷座し、土崎港の総鎮守としたことに始まります。
中世の城下町であった土崎が新しい城下町の建設に代わる途中で、土崎港町の発展を願って創建された神社です。
毎年7月の20、21日に行われる例祭「曳山行事」は、国重要無形民俗文化財に指定されており、土崎港曳山まつりとして広く知れ渡っています。
ご祈祷の時間等については、参拝の皆様に合わせるので、神社に直接問い合わせて下さいとのことです。
厄払いはメールや電話で日時・名前・電話番号を知らせた上で予約をと取る様にとのことです。
3. 太平山三吉神社総本宮
ご祭神は大己貴大神(大国主命)・少彦名大神・三吉霊神(秋田で生まれた守護神)の三柱です。
三吉霊神は力、勝負、破邪顕正の神様です。
元は太平の城主藤原鶴寿丸三吉は、里人の面倒をよく見た名君でした。
しかし、他の豪族達に妬まれ追い出されてしまった為、世を捨て太平山に籠り、太平山の神である大己貴大神と少彦名神様を信仰して修行に励みました。
その結果、力を身に着け、神として祀られた郷土の神様です。
霊験談も多く、近世では戊辰の役の際に霊験あらたかで、三吉霊神様のご神徳に感謝した秋田藩主佐竹候より、現在の里宮の地を奉られました。
特に、勝利成功、事業繁栄の神様として、地元ばかりか北海道や関東など遠方からの崇敬者が沢山訪れています。
お祓いは8時半から17時まで年中無休で受け付け、随時ご祈祷をしています。
予約は不要です。
当社では、形代を使って祓清めの儀式を行っています。
4. 日吉神社
ご祭神は大物主大神、崇徳天皇、少名彦命、猿田彦命、大穴遲大神等17柱に登ります。
ご神徳は、生業発展・心身堅固に特に崇拝されています。
創建は、大同元(806)年に秋田市中心部西側にある勝平山に鎮座したと伝えられています。
その後、現在の地に鎮まられたと言います。
当社は古くから滋賀県大津坂本の日吉大社の別社と称されており、ご神体はその余材に依って作られたとの伝説がありました。
時代が下って赤尾津氏、最上氏の領有する所となり、元和8(1622)年に領地引き換えで佐竹氏の領地となりました。
境内の赤い大鳥居は、昭和天皇御在位50年を祝って建てられた山王大鳥居です。
手水舎は、龍の口から水が出ていますが、これは新屋の湧水を絶えず流しているものです。
お祓いのご祈祷の受け付けは随時受け付けていますので、電話で問い合わせてください。
5. 秋田県護国神社
ご祭神は護国英霊37,841柱と配祀神として伊邪那岐命・伊邪那美命をお祀りしています。
創建は明治元年。
社殿は明治26年に焼失した為、再建、更に昭和14年に現在の秋田城址に本殿流造の荘厳な社殿が造営されました。
昭和44年には昭和天皇皇后両陛下、同45年には今上天皇皇后両陛下の御親拝があり、他にも常陸宮様始め各宮家の方々のご参拝があり、幣帛量を賜っています。
御祈祷については、直接神社に取り合わせて下さい。
6. 総社神社
ご祭神は、神明宮に天照大御神と豊受比売大神を、総社宮に大己貴神・八重事代主神・味鋤高彦根神をお祀りしています。
たに末社宮が十九社あります。
創建は724年になります。
その年の3月8日の夜半に三森山に突然神光が飛来し、昼間の様な明るさになり、辺りの山河は動鳴したと言います。
里人達が驚いている中、「我は大己貴神なり。
今ここに一宮を創建し祀らば、国中安泰、諸人守護、五穀豊穣といたさん」という神勅が下りました。
そこで人々は神殿を建立し、八重事代主神と味鋤高彦根神を左右相殿としてお祀りしたのが始まりと伝わっています。
御璽(みたま)は、神勅が下りた時に、天降りの磐座をもって社殿に納めました。
それより「御嶽山総社大明神」と称して信仰されてきました。
後、源頼朝が大嶽山、小嶽山、光明山の三森を神領としたので、現在でも広大な境内には自然豊かな森樹に囲まれています。
格の高い神社です。
豊かな緑の境内でお祓いを受けるにもすがすがしいです。
ご祈祷については、直接神社に問い合わせて下さい。
秋田県内でも重要な神社として、明治時代には県社に列格されるなど、人々の崇敬が篤い神社です。
7. 彌高神社
ご祭神は平田篤胤大人命(溢号 神霊真柱大人命)と佐藤信淵大人命です。
平田篤胤は1776年生まれ。
20歳で江戸へ出て苦学を極めました。
ついには皇朝古道学で一流の専門家となり、敬神崇租の心を説きました。
生涯に著述した本は百部千余巻、古史、古道、疫学、暦学、仏学、道学、儒学、文学、語学、尺度量法、諸宗門、和漢洋楽に広く通じていました。
中でも「霊能真柱」「古史伝」「古道大意」は神道史上重要な著書であると共に、篤胤の思想の核をなすものでした。
それは、地方神宮、郷土、豪農、承認、武士から庶民に至るまで受け入れられて行きました。
彼の門人は553人にもなり、没後も1330人余が門人となりました。
最後は白川神祇伯家学頭となり、古学の教授となりました。
佐藤信淵は1769年生まれ。
客死した父の遺言により、16歳の時に江戸に出て蘭学を修めました。
他にも経済学、天文、地理、動植物、暦算測量等も学びました。
1807年には徳島藩に招聘されて兵学講師となり、「鉄砲窮理論」を著して自走火船を考案しました。
これらにより、彼の名声は高くなり、門人となる物が一気に増えました。
1815年、47歳で平田篤胤の門人となり、48歳の時には江戸払いを命ぜられて諸国を遊歴、行く才崎で気候、風俗、人情を考究しました。
彼の著作は三百種八千巻と伝えられていますが、中でも「農政本論」「草木六耕種法」の完成に依って、家学を大成しました。
2人が修めた学問は、維新後の日本にも重大な意味を持ちました。
また、神道について、家学についての知識は日本古来の姿を改めて私達に思い出させてくれました。
その功績に依って、神として祀られるようになったのです。
ご祈祷の詳細については、神社に直接神社に問い合わせて下さい。
8. 東館神社
旧称を「少名彦名神社」と言いました。
ご祭神は少彦名命、大名持命、石清水八幡大神、佐竹義久神です。
当初は真言宗の蓬乘寺であったと言われています。
その後佐竹義賢公が仙北金沢から秋田に移住し、明治に入って寺社統合により、蓬乘寺は少彦名神社として改装され、義賢公の父義久功を武神として合祀しました。
大正時代に入り、現在の「東館神社」と名称を変更しました。
人々からは「お東さん」と呼ばれて親しまれています。
社殿も昭和14年に全面改築して現在に至ります。
ご祈祷については、直接神社に問い合わせて下さい。
5. 秋田県護国神社
ご祭神は護国英霊37,841柱と配祀神として伊邪那岐命・伊邪那美命をお祀りしています。
創建は明治元年。
社殿は明治26年に焼失した為、再建、更に昭和14年に現在の秋田城址に本殿流造の荘厳な社殿が造営されました。
昭和44年には昭和天皇皇后両陛下、同45年には今上天皇皇后両陛下の御親拝があり、他にも常陸宮様始め各宮家の方々のご参拝があり、幣帛量を賜っています。
御祈祷については、直接神社に取り合わせて下さい。
6. 総社神社
ご祭神は、神明宮に天照大御神と豊受比売大神を、総社宮に大己貴神・八重事代主神・味鋤高彦根神をお祀りしています。
たに末社宮が十九社あります。
創建は724年になります。
その年の3月8日の夜半に三森山に突然神光が飛来し、昼間の様な明るさになり、辺りの山河は動鳴したと言います。
里人達が驚いている中、「我は大己貴神なり。
今ここに一宮を創建し祀らば、国中安泰、諸人守護、五穀豊穣といたさん」という神勅が下りました。
そこで人々は神殿を建立し、八重事代主神と味鋤高彦根神を左右相殿としてお祀りしたのが始まりと伝わっています。
御璽(みたま)は、神勅が下りた時に、天降りの磐座をもって社殿に納めました。
それより「御嶽山総社大明神」と称して信仰されてきました。
後、源頼朝が大嶽山、小嶽山、光明山の三森を神領としたので、現在でも広大な境内には自然豊かな森樹に囲まれています。
格の高い神社です。
豊かな緑の境内でお祓いを受けるにもすがすがしいです。
ご祈祷については、直接神社に問い合わせて下さい。
秋田県内でも重要な神社として、明治時代には県社に列格されるなど、人々の崇敬が篤い神社です。
7. 彌高神社
ご祭神は平田篤胤大人命(溢号 神霊真柱大人命)と佐藤信淵大人命です。
平田篤胤は1776年生まれ。
20歳で江戸へ出て苦学を極めました。
ついには皇朝古道学で一流の専門家となり、敬神崇租の心を説きました。
生涯に著述した本は百部千余巻、古史、古道、疫学、暦学、仏学、道学、儒学、文学、語学、尺度量法、諸宗門、和漢洋楽に広く通じていました。
中でも「霊能真柱」「古史伝」「古道大意」は神道史上重要な著書であると共に、篤胤の思想の核をなすものでした。
それは、地方神宮、郷土、豪農、承認、武士から庶民に至るまで受け入れられて行きました。
彼の門人は553人にもなり、没後も1330人余が門人となりました。
最後は白川神祇伯家学頭となり、古学の教授となりました。
佐藤信淵は1769年生まれ。
客死した父の遺言により、16歳の時に江戸に出て蘭学を修めました。
他にも経済学、天文、地理、動植物、暦算測量等も学びました。
1807年には徳島藩に招聘されて兵学講師となり、「鉄砲窮理論」を著して自走火船を考案しました。
これらにより、彼の名声は高くなり、門人となる物が一気に増えました。
1815年、47歳で平田篤胤の門人となり、48歳の時には江戸払いを命ぜられて諸国を遊歴、行く才崎で気候、風俗、人情を考究しました。
彼の著作は三百種八千巻と伝えられていますが、中でも「農政本論」「草木六耕種法」の完成に依って、家学を大成しました。
2人が修めた学問は、維新後の日本にも重大な意味を持ちました。
また、神道について、家学についての知識は日本古来の姿を改めて私達に思い出させてくれました。
その功績に依って、神として祀られるようになったのです。
ご祈祷の詳細については、神社に直接神社に問い合わせて下さい。
スポンサーリンク