心技体という言葉を聞いたことはありませんか?
「技術だけでなく、心技体を鍛えることが重要だ」
「最近の日本人は、体ばかりは大きくなったが、残りの心と技術がついていっていない」
といった使われ方をされていて、なんとなくわかったような気持になっているかもしれません。
ここでは心技体という言葉の由来から、意味、そうして心技体を鍛えることについて、ご紹介します。
- 心技体とは?
- 心技体を鍛えるメリット
- 心技体の【心を鍛える方法やコツ】
- 心技体の【技を鍛える方法やコツ】
- 「心」「技」「体」それぞれの目標設定が大事
- 心技体が整った人の特徴
- まとめ
1. 心技体とは?
心技体とは、精神、技術、肉体の3つの要素のことです。
とりわけ武道などの上達にはこの3要素がそろっていることが重要とされています。
そもそもこの言葉は従来の日本にはありませんでした。
というのも、日本では古来から、心技体はひとつのものとしてとらえられており、分けて考えるという発想自体がなかったのです。
古武道は、スポーツではなく、いくさや決闘において自分の使命を果たすためのものであり、そのために心身を鍛錬し、技術を磨くものでした。
そこにおいて心技体がひとつのものであるのは自明のことであり、あえてその3つを分ける必要はありませんでした。
一方、西洋においては、ギリシャ時代から、人間の精神と肉体は厳しく分けられ、やがて滅んでいく肉体に対して、霊魂は不滅であり、精神の優位性が強く信じられていました。
近代に入ってもこの考え方は強く残り、精神である心が主体で、身体は物体という心身二元論がずっと言われてきました。
スポーツは体を鍛えるためや、レクリエーションのために行われていましたが、次第にルールなどが整備され、勝ち負けを競うゲームとして、発展していきました。
明治に入って、西洋近代の考え方がどっと流入し、日本人もいつの間にか、西洋流のスポーツを受け入れ、旧来の武術は時代遅れと見なされるようになってきました。
そのような流れの中で、武術を復興させようと尽力した1人が、柔道の創始者である加納治五郎です。
なぜ柔術ではなく柔道かというと、単に柔術という技術を身に付けるのではなく、その技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざすという「道」の理念を目的としたものだったからです。
そこからいったんは廃れかけた古武道の精神を継承した日本の武道が新たに生まれていきました。
それを引き継いだ日本武道協議会は「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、空手道、剣道、相撲、弓道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道などを修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である」と定めています。
2. 心技体を鍛えるメリット
時代小説を読むと、剣術を身に付けようと師匠に弟子入りした青年が、来る日も来る日もまき割をやらされたり、雑巾がけをやらされたりして、まったく剣を握らせてもらえず、いらだちをつのらせる……、という話がよく出てきます。
アメリカ映画でも、空手やカンフーを身に付けようとする主人公が、師匠に雑用ばかりさせられる、というシーンが『ベスト・キッド』や『カンフー・パンダ』にも出てきます。
日本人にはなじみの深いこうしたシーンも、西洋人にとっては新鮮に映るのかもしれませんね。
こうした、何かの技術を伝える際に、直接そのテクニックを伝授するのではなく、日常生活を通して、教わる側からすれば、何かわけのわからない形で伝えるやり方というのが、まさに心技体を一体化させた教授法といえます。
ただの技術だけなら、言葉で伝えたり、やって見せたりすることができます。
けれどもそうした「ハウツー方式」では臨機応変に、場の状況を察知して、素早く反応したり、てきぱきと対処したりすることはできません。
柔軟さや臨機応変さは、技術を頭の中に叩き込んで対処する、という行動原理から生まれるものではないからです。
身の回りの雑用は、人が生きていく上で、欠かせないものです。
けれどもあまりに慣れすぎていて、その重要さを忘れ、どうしても雑になったり、手を抜いたり、省略したりするものでもあります。
そういうことをひとつひとつ丁寧に、そしてまた、決められたことを決められたようにするのではなく、そこに工夫を重ね、クリエイティブな要素を付け加えていくことによって、ハウツー方式では習得できない身体知を体得できるようになっていきます。
映画の中では、心技体を一体化させる学びを続けることによって、弱虫だった少年や、食べることしか能のなかったパンダは、自分の中に眠っていたもうひとりの自分と出会いつつ、空手やカンフーの技を身に付けていきます。
そうして思いがけない危機に直面しても、柔軟に、臨機応変に、対処できるようになっていくのです。
それこそが心技体を鍛えるメリットといえます。
3. 心技体の【心を鍛える方法やコツ】
3-1. 心を感じるのはひとりでいるとき
私たちはどんなときに心を感じるでしょうか。
親しい人と話していて、楽しいひと時を過ごしている時間は、あっという間に過ぎていきます。
そんなとき、私たちは自分の心が楽しんでいるなあ、と思うことすらなく、ただひたすら楽しんでいるのではないでしょうか。
逆に、人といても心を感じるときはあります。
この間まで親しかったはずの人が、ふっと遠くに感じられてしまうようなとき。
グループで行動していても、自分一人が冷めてしまって、周囲の人と一体感を感じることができないとき。
私たちが心を感じるのは、自分の中の「個」を自覚したときなのです。
ひとりでいるとき、自分の心と向き合ってみましょう。
自分の心の中には何があるか。
どんな思いがあり、何を望み、何に怒っているでしょうか。
何を不安に思っているでしょうか。
まずは1人の時間を作り、静かに自分の心と向き合ってみましょう。
これが心を鍛えるトレーニングの第一段階です。
3-2. 強い感情の裏には価値判断が潜んでいる
自分の中にある望みや怒り、不安が見えてきたら、今度はそれをひとつずつ取り出してみましょう。
私たちの望みや怒り、不安には、実は相当深いところまで、これまで自分が人生の中で築いてきた価値判断が織り込まれています。
「将来、仕事がなくなったらどうしよう」
この不安の中には、正社員であることこそ、将来の生活を安定させる条件である、という価値判断があるかもしれません。
「あの人に愛してもらえなくなったらどうしよう」
異性に愛されて初めて、自分としての意味が生まれてくる、という価値判断があるのかも。
自分の望みや怒り、不安といった強い感情の背後に、どのような価値判断が潜んでいるか、それを見つけ出すことが、トレーニングの第二段階です。
3-3. 価値判断を見直す
自分の価値判断に気づいたら、次の段階ではそれを「ほんとうにそうだろうか」と別の角度から考えてみてください。
正社員でなければ、本当に困ったことになるのか。
逆に、正社員であれば一生安泰かというと、そうでないことは今では誰でも理解していることでしょう。
自分の価値判断を、誰か別の人が言っていると想定して、反論してみてください。
そうするうちに、自分の価値判断にはそれほど根拠がなかったことに気づくはずです。
そうやって、自分の思い込みに気づいていけば、望みや怒り、不安などの強い思いは、次第に平らになっていき、心がニュートラルな状態になっていくはずです。
不安や緊張の中にあるとき、人の体は臨機応変に、柔軟に動くことはできませんよね。
そのためには心がニュートラルであることが必要です。
このトレーニングを行うことによって、ニュートラルな心の状態を、意識的に作り出すことができるのです。
4. 心技体の【技を鍛える方法やコツ】
4-1. 技術を身に付けるには、いったん自分をリセットする
教える側に立つ人が、かならず言うことは、なまじの経験者は教えにくい、ということです。
自分はできる、わかっている、知っている、と思っている人には、新しい技術や知識はすっと入っていきません。
え、それってこういうことじゃないの?
前やったときは、そんなこと聞いてないけど。
自分はできているのに。
そんなことを言っている人は、何も学ぶことができないことは、誰の目にも明らかなことでしょう。
昔話でも、最後に成功するのは、賢い人でも力持ちでもなく、素直で教えを従順に学ぶ人でした。
ところが客観的には理解できても、自分が当事者になると、これは簡単ではありません。
どうしてもプライドが邪魔をして、これならできる、自分のやり方でうまくやれる、と思ってしまうのです。
学ぶときはいったん自分をリセット。
ゼロの状態から始めましょう。
大丈夫。
これまでやってきたことは、思っているのとは別の形で、かならず生きてきます。
4-2. 何を教わっているのか、習っている側は完全にはわからない
『カンフー・パンダ』でも『ベスト・キッド』でも、文句ばかり言いながら雑用をしていた主人公たちは、自分がやっていることは、空手やカンフーとは何の関係もない、ただの雑用だと思っていました。
けれども後にもっと高度な技を身に付けようとしたとき、すべてがトレーニングだったことに気づきます。
それと同じで技術を教わっている側は、今自分が習っているのが、全体の中ではどの部分に当たり、どんな役割を果たすのか、これがどのように全体と関連していくのか、ということを、決して知ることはできません。
そうしたことは、すべて技術を習得し、実践を重ねたのちに、ああ、そういうことだったのか、と気づくのです。
技術を身に付けようとするとき、かならず「これが何の役に立つんだ」と思うことがあるでしょう。
そのときは、「何を教わっているのか、習っている側は完全にはわからない」ものだということを思い出してください。
ここまでのことで、技術を習う側に何よりも必要な資質は、手先の器用さや運動神経などの、持って生まれた能力ではなく、指導者に対して素直であること、知っているという傲慢さを捨てること、わからなくても粘り強く続けること、という、精神的なものであることがわかりました。
素直さや粘り強さは持って生まれた資質というよりは、技術を身に付ける中で養われた、その人の精神的な気高さです。
素直でなければ技術を身に付けることはできない。
また、技術を身に付けることによって、素直さがつちかわれていく。
心と技術はこのように関連し合っています。
4-2. 引き算のトレーニング
「鍛える」というトレーニングには、代償があります。
それは「鈍くなる」ということです。
プロレスラーが筋肉をつけるのも、力を出せるようになるだけでなく、加えられた力に耐えられるようになる、逆に言うと、痛みや重さに鈍くなる、ということでもあります。
一方、武術をやる人の中には、筋トレをほとんどしない人が数多くいます。
彼らはむしろ、身体から余分な力を抜き、筋肉の緊張を解き、意識をニュートラルな状態に置くことで、感覚を研ぎ澄ませるのです。
このトレーニングは足し算のトレーニングとは異なって、言葉で説明するのがむずかしいのですが、坐禅や瞑想によって少しずつできるようになっていきます。
4-3. 筋トレだけではない、鍛えられた体を作る
心技体一体となったトレーニングが目指すのは、筋肉をつけるだけではない、引き算のトレーニングでもあります。
筋力と同時に、感覚世界を深めるように強くしていく。
ひとりではむずかしいことですが、ぜひメンターを見つけ、坐禅や瞑想をトレーニングに取り入れてみてください。
5. 「心」「技」「体」それぞれの目標設定が大事
心技体を鍛える、といっても、西洋式のライフスタイルや考え方が染みついてしまっている私たちにとって、統一した形で鍛えていくことはむずかしいことです。
そのために、それぞれに目標を定めることが大切になってきます。
ここではまず第一歩としての目標を挙げます。
心に関しては、まずは自分の心と向き合うことから。
技に関しては、何かひとつ、新しい技術を習得してみてください。
その時忘れないでほしいのは、自分の知識や技術をいったんリセットして、素直な気持ちで習うということです。
体に関しては、引き算のトレーニングができるところを探してみる。
ヨガ教室でもお寺の坐禅でも構いません。
この3つをそれぞれ関連させながら、心技体を鍛えることを始めてみてください。
この3つを最初の目標として、以降はご自身で考えながら、トレーニングを続けてください。
6. 心技体が整った人の特徴
6-1. 心身ともに健やかであること
もちろん人間ですから、体調が悪くなることもあるでしょう。
けれども心技体を鍛えることによって、そこから不安になったりはありません。
また日々の生活を整えることを通して、体調管理が自然とできるようになっていきます。
6-2. とっさの事態にも対応できる
普段から心技体を鍛えておくことで、臨機応変に、柔軟に対応することができます。
とっさの事態にパニックに陥ったり、感情的になったりしないですみます。
6-3. クリエイティブな発想ができるようになる
心技体を鍛えることによって、決まり決まった発想の外へ出ることができるようになります。
そこからクリエイティビティが生まれていきます。
まとめ
昨今、クリエイティブであることが重要だと言われています。
けれども「こうすればクリエイティブになれる」というハウツーを読んだところで、クリエイティブになれるはずがありません。
従来の枠にとらわれない発想ができる、とは、臨機応変に、柔軟に、心身が反応する、ということではないでしょうか。
そう考えると、仮に武道とは無関係な生活をしていたとしても、心技体を鍛えていくことは、大切なことと言えます。
ぜひ皆さんもこの機会に、今一度心技体について考えてみてください。
心技体という言葉を聞いたことはありませんか?
「技術だけでなく、心技体を鍛えることが重要だ」
「最近の日本人は、体ばかりは大きくなったが、残りの心と技術がついていっていない」
といった使われ方をされていて、なんとなくわかったような気持になっているかもしれません。
ここでは心技体という言葉の由来から、意味、そうして心技体を鍛えることについて、ご紹介します。
1. 心技体とは?
心技体とは、精神、技術、肉体の3つの要素のことです。
とりわけ武道などの上達にはこの3要素がそろっていることが重要とされています。
そもそもこの言葉は従来の日本にはありませんでした。
というのも、日本では古来から、心技体はひとつのものとしてとらえられており、分けて考えるという発想自体がなかったのです。
古武道は、スポーツではなく、いくさや決闘において自分の使命を果たすためのものであり、そのために心身を鍛錬し、技術を磨くものでした。
そこにおいて心技体がひとつのものであるのは自明のことであり、あえてその3つを分ける必要はありませんでした。
一方、西洋においては、ギリシャ時代から、人間の精神と肉体は厳しく分けられ、やがて滅んでいく肉体に対して、霊魂は不滅であり、精神の優位性が強く信じられていました。
近代に入ってもこの考え方は強く残り、精神である心が主体で、身体は物体という心身二元論がずっと言われてきました。
スポーツは体を鍛えるためや、レクリエーションのために行われていましたが、次第にルールなどが整備され、勝ち負けを競うゲームとして、発展していきました。
明治に入って、西洋近代の考え方がどっと流入し、日本人もいつの間にか、西洋流のスポーツを受け入れ、旧来の武術は時代遅れと見なされるようになってきました。
そのような流れの中で、武術を復興させようと尽力した1人が、柔道の創始者である加納治五郎です。
なぜ柔術ではなく柔道かというと、単に柔術という技術を身に付けるのではなく、その技を磨く稽古を通じて人格の完成をめざすという「道」の理念を目的としたものだったからです。
そこからいったんは廃れかけた古武道の精神を継承した日本の武道が新たに生まれていきました。
それを引き継いだ日本武道協議会は「武道は、武士道の伝統に由来する我が国で体系化された武技の修錬による心技一如の運動文化で、柔道、空手道、剣道、相撲、弓道、合気道、少林寺拳法、なぎなた、銃剣道などを修錬して心技体を一体として鍛え、人格を磨き、道徳心を高め、礼節を尊重する態度を養う、国家、社会の平和と繁栄に寄与する人間形成の道である」と定めています。
2. 心技体を鍛えるメリット
時代小説を読むと、剣術を身に付けようと師匠に弟子入りした青年が、来る日も来る日もまき割をやらされたり、雑巾がけをやらされたりして、まったく剣を握らせてもらえず、いらだちをつのらせる……、という話がよく出てきます。
アメリカ映画でも、空手やカンフーを身に付けようとする主人公が、師匠に雑用ばかりさせられる、というシーンが『ベスト・キッド』や『カンフー・パンダ』にも出てきます。
日本人にはなじみの深いこうしたシーンも、西洋人にとっては新鮮に映るのかもしれませんね。
こうした、何かの技術を伝える際に、直接そのテクニックを伝授するのではなく、日常生活を通して、教わる側からすれば、何かわけのわからない形で伝えるやり方というのが、まさに心技体を一体化させた教授法といえます。
ただの技術だけなら、言葉で伝えたり、やって見せたりすることができます。
けれどもそうした「ハウツー方式」では臨機応変に、場の状況を察知して、素早く反応したり、てきぱきと対処したりすることはできません。
柔軟さや臨機応変さは、技術を頭の中に叩き込んで対処する、という行動原理から生まれるものではないからです。
身の回りの雑用は、人が生きていく上で、欠かせないものです。
けれどもあまりに慣れすぎていて、その重要さを忘れ、どうしても雑になったり、手を抜いたり、省略したりするものでもあります。
そういうことをひとつひとつ丁寧に、そしてまた、決められたことを決められたようにするのではなく、そこに工夫を重ね、クリエイティブな要素を付け加えていくことによって、ハウツー方式では習得できない身体知を体得できるようになっていきます。
映画の中では、心技体を一体化させる学びを続けることによって、弱虫だった少年や、食べることしか能のなかったパンダは、自分の中に眠っていたもうひとりの自分と出会いつつ、空手やカンフーの技を身に付けていきます。
そうして思いがけない危機に直面しても、柔軟に、臨機応変に、対処できるようになっていくのです。
それこそが心技体を鍛えるメリットといえます。
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