人生の中で、身体や運気にも波があります。
1,000年以上も前から、日本人はそのことに気付いていたのでしょう。
厄年には特に身を慎み、ご祈祷をしてもらって無事に過ごせるようにしていました。
平安時代頃には、男女とも人生に厄年が5~6回はありましたが、現在は、数えの年で、男性42歳、女性33歳が大厄の年とされ、厄払いのご祈祷を神社やお寺でして頂く人が殆どです。
そうして、厄年を飛躍の年と考えて、真面目に働くことが病気や事故等から身を守り、開運に繋がります。
殆どの神社では、例大祭の日等を除いて毎日ご祈祷を受け付けています。
お祓いを受ける時は、神様の前に出るのですから、きちんとした格好でお参りしましょう。
男性はスーツ、女性もスーツの正装が基本です。
他に、季節によっては暑い時もあるでしょうから、半袖や膝が隠れる位の丈のワンピース等、正装に準ずる服装で臨みましょう。
又、御神前では軽く頭を下げ、神職が「頭を下げて下さい」と言った時も同じです。
特に、祝詞を上げている間は一番頭を下げるようにしましょう。
- 淡嶋神社
- 熊野那智大社
- 熊野速玉大社
- 日前神宮・國懸神宮
- 熊野本宮大社
- 顯國神社
- 丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
- 刺田比古神社(岡の宮)
- まとめ
1. 淡嶋神社
ご祭神は、少彦名命・大己貴命・息長足姫命の3柱です。
少彦名命は医薬の神様で、特に女性の病気回復や安産、子授けにも霊験あらたかと言われています。
創建は神功皇后の時代です。
神功皇后が新羅征伐からお帰りの途上、瀬戸の会場で嵐に遭われました。
船が沈みそうになり、神に祈りを捧げられると、「船の苫を海に投げ、それが流れるままに船を進めよ」とのお告げがありました。
その通りにすると、1つの島に無事に辿り着くことが出来ました。
その島を友ヶ島と言います。
友ヶ島には少彦名命と大己貴命が祀られていたので、神功皇后は御礼に、持ち帰った宝物をお供えになりました。
後年、神功皇后の孫に当たられる仁徳天皇が友ヶ島では何かと不便であろうということで、お社を対岸の加太に移され、社殿を建てられました。
これが、加太淡嶋神社の起こりとされています。
厄払いには予約が必要です。
2. 熊野那智大社
ご祭神は熊野夫須美大神で、「結宮(むすびのみや)」として、人の縁、願いを結ぶ宮として崇められてきました。
熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社と共に、熊野三山の一社です。
創建は、神武天皇の東征にまで遡ります。
紀元前662年、天皇一行は那智の浜に上陸されました。
そこで光り輝く山を見つけたので、山を目指して進むと、那智御瀧に辿り着きました。
天皇は、その御瀧を大己貴命が現れたご神体としてお祀りされました。
その後神武天皇は八咫烏の先導に依り、大和の橿原の地で紀元前660年2月11日に初代神武天皇として即位されました。
先導を務めた八咫烏は熊野の地に戻り、今は医師に姿を変えて休んでいるとされています(境内にある鳥石)。
本殿は朱塗りの熊野造りで、第一殿から滝宮(大己貴命)、証誠殿(家都御子大神)、中御前(御子速玉大神)、西御前(熊野夫須美大神)、若宮(天照大神)、八社殿(天神地祇)が並んでいます。
拝殿には主祭神の熊野夫須美大神=イザナミノミコトをお祀りしています。
那智御瀧は国指定名勝であり、世界遺産にも記録されています。
全山で48滝あると言われるように数多の滝がありますが、最も高いのが那智御瀧です。
高さ133m、銚子口の幅13m、瀧壺の深さは10m以上ある壮麗な瀧です。
水量も毎秒1トン以上と言われています。
延命長寿の水と伝えられる滝壺の水を飲むことも出来ます。
厄払いの受け付け時間は8時から15時半まで。
ご祈祷料は5,000円からとなっています。
また、那智御瀧での正式参拝も行っています。
3. 熊野速玉大社
熊野三山の1社である熊野速玉大社は、熊野信仰らしく、自然を神と見做す自然信仰から始まりました。
諸書に依ると、熊野の神々は神代の頃、まず神倉山に降臨され、その後景行天皇が現在の地に宮を造営されました。
「新宮」と号したと記されています。
最初は2つの神殿に熊野速玉大神、熊野夫須美大神、家津美御子大神を祀りました。
平安時代初頭には、12の社殿を祀る神殿が完成しました。
このことからわかるように、神倉山は当初は社殿が無く、自然を崇める自然信仰・原始信仰の中心であったと思われます。
また、熊野速玉大社とその摂社神倉神社はどちらも世界遺産に指定されています。
神倉神社のご神体は神倉山中腹にある「ゴトビキ岩」です。
お祓いは5,000円から随意となっています。
4. 日前神宮・國懸神宮
この両神宮は同一境内にあります。
創建2600余年と神話の時代にお祀りされた神宮です。
日前神宮は「火像鏡(ひがたのかみ)」をご神体として、日前大神を(天照大神)を奉祀し、國懸神宮は「日矛鏡(ひぼこのかがみ)」をご神体として、國懸大神を奉祀しています。
神話の時代、天照大神が天の岩戸に御隠れになった時、天照大神のお顔を映す鏡を鋳造しました。
その時の2枚の鏡がこの両宮のご神体として奉祀されたと伝えられている、大変古い歴史を持つ神宮です。
この2つの神鏡を神武天皇東征後、天道根命を紀伊國造(きいのくにのみやつこ)とし、以来現在に至るまで紀氏(きいし)に依って歴代奉祀されています。
この2枚の御神境は三種の神器に次ぐ宝鏡とされ、朝廷との結び付きも深い神宮です。
また、紀伊の国一之宮として、人々から篤く信仰されています。
お祓はい年中無休で行っています。
受付時間は8時から16時半までです。
ご祈祷料は6,000円です。
また、厄明けのご祈祷も受け付けています。
ご祈祷後、お札の片方を半分に割り、片方を神社の絵馬掛けに掛け、もう片方は自宅にお祀りします。
車のお祓いも出来ます。
5. 熊野本宮大社
熊野三山の1社です。
主祭神は家津美御子大神(スサノオノミコト)です。
その他に熊野三山に共通する「熊野十二所権現」と呼ばれる十二柱の神々を祀っています。
古代、この本宮に神が降臨したと伝えられています。
その後飛鳥時代の615年、崇神天皇が社殿を建てられ、奈良時代には仏教を取り入れて神を仏としてお祀りするようになりました。
平安時代には、皇族・貴族に熊野信仰が広まり、男女を問わず大勢の人達が参拝しました。
過去には「熊の坐神社(くまのいますじんじゃ)」と号し、熊野の神様と言えばこの本宮を指していたと考えられています。
厄払いのご祈祷は8時から16時半までっですが、予約をした方が良いようです。
ご祈祷料は5,000円からお気持ちで、ということです。
20,000円からは巫女による舞を奉納します。
6. 顯國神社
ご主祭神は大國主命・須佐男命・櫛名田姫命・沼川姫命の五柱です。
創建は桓武天皇延歴20(801)年。
坂上田村麻呂が天皇の命で東征に向かう途中、海底から大中小の3つの光り輝く霊玉を得ました。
坂上田村麻呂は大変喜び、ここに祠を作り、大の玉を「大国主命」として主神とし、中小を須佐之男命と奇稲田姫神として祀り、大国大明神と名付けました。
その為、近隣の民人達は鎮守の神として例祭を行い、参拝を欠かさなかったと言います。
その後、近衛天皇の天養元(1144)年、湯浅村に社地を定めて神殿を遷し、顯國神社と改称して今に至ります。
社殿・杜域共に広大なので、いっぱんには「大宮さん」と呼ばれています。
社名の額は、明治15年に有栖川宮幟仁親王殿下の御筆によるものです。
厄払いについて、この神社では、「厄を祓福に転じて、神前に於いて自分を見つめ直し、与えられた役を乗り切れるようご祈祷しましょう」と書いています。
ご祈祷料は特に定めはありませんが、目安は3,000円からとなっています。
7. 丹生都比売神社(にうつひめじんじゃ)
ご祭神は、以下の神様です。
- 丹生都比売大神(もろもろの災いを祓い退け、一切のものを守り育てる女神。不老長寿、農業、養蚕の守り神)
- 高野御子大神(弘法大師を高野山に導いた、幸福への導きの神)
- 大食都比売大神(あらゆる食べ物に関する守り神)
- 市杵島比売大神(財運と芸能の神・七福神の弁天様)
創建は遠く今から1700年程前のことと伝えられています。
丹生都比売大神は、天照大御神の妹神で、神代の時代に紀ノ川流域の三谷に降臨され、紀州や大和に農耕を広め、この地に鎮座されました。
また、神功皇后が出兵なさる折、丹生都比売大神の託宣に依って衣服から武具、船に至るまで朱色に塗ったところ戦勝を収めることが出来たので、これに感謝した応神天皇が社殿と広大な神領を寄進したとされています。
丹生都比売大神は「もろもろの災いを祓い退け・・・」とあるように、厄払いに適した神様です。
ご祈祷は9時から15時まで受け付けています。
予約をしたい場合は電話で希望日時を伝えて下さい。
予約が優先となります。
ご祈祷料は5,000円です。
8. 刺田比古神社(岡の宮)
ご祭神は神武天皇東征の際、活躍した道臣命(みちおみのみこと・大伴氏の祖先神)と、百済救済の武功で知られる大伴佐弖比古命。
佐弖比古命は道臣命のひ孫とされ、武功に依り岡の里の地を授かったと言います。
任那救済の勅命を受けた佐弖比古命が、任那に勝ち百済を救済された功に依る物でしょう。
古来岡の地は人が住んでおり、道臣命は岡の里の出身とされています。
佐弖比古命より代々岡の里を継承し、佐比古命20代後の末裔である大伴武持が岡の里に住んだことに依って、大伴氏発祥の地であるここに租神、祖霊を祭祀しました。
里人達もこの詩を開拓して下さった神として、そのご神徳を崇め、産土神様として大国主神と尊称しました。
また、この神社は徳川第8大将軍吉宗公が誕生された時、神主であった岡本周防守長諄が借り親となりました。
この為、吉宗公からは特別に崇敬を受けたそうです。
厄除けのご祈祷は、いつでも受け付けています。
まとめ
和歌山には熊野信仰など、独特の信仰が有ります。
特に山や瀧、岩等をご神体と捉える神宮・神社が多いのも特色です。
熊野の自然に触れて、原始の信仰の形を体得するのも良い経験ではないでしょうか。
人生の中で、身体や運気にも波があります。
1,000年以上も前から、日本人はそのことに気付いていたのでしょう。
厄年には特に身を慎み、ご祈祷をしてもらって無事に過ごせるようにしていました。
平安時代頃には、男女とも人生に厄年が5~6回はありましたが、現在は、数えの年で、男性42歳、女性33歳が大厄の年とされ、厄払いのご祈祷を神社やお寺でして頂く人が殆どです。
そうして、厄年を飛躍の年と考えて、真面目に働くことが病気や事故等から身を守り、開運に繋がります。
殆どの神社では、例大祭の日等を除いて毎日ご祈祷を受け付けています。
お祓いを受ける時は、神様の前に出るのですから、きちんとした格好でお参りしましょう。
男性はスーツ、女性もスーツの正装が基本です。
他に、季節によっては暑い時もあるでしょうから、半袖や膝が隠れる位の丈のワンピース等、正装に準ずる服装で臨みましょう。
又、御神前では軽く頭を下げ、神職が「頭を下げて下さい」と言った時も同じです。
特に、祝詞を上げている間は一番頭を下げるようにしましょう。
1. 淡嶋神社
ご祭神は、少彦名命・大己貴命・息長足姫命の3柱です。
少彦名命は医薬の神様で、特に女性の病気回復や安産、子授けにも霊験あらたかと言われています。
創建は神功皇后の時代です。
神功皇后が新羅征伐からお帰りの途上、瀬戸の会場で嵐に遭われました。
船が沈みそうになり、神に祈りを捧げられると、「船の苫を海に投げ、それが流れるままに船を進めよ」とのお告げがありました。
その通りにすると、1つの島に無事に辿り着くことが出来ました。
その島を友ヶ島と言います。
友ヶ島には少彦名命と大己貴命が祀られていたので、神功皇后は御礼に、持ち帰った宝物をお供えになりました。
後年、神功皇后の孫に当たられる仁徳天皇が友ヶ島では何かと不便であろうということで、お社を対岸の加太に移され、社殿を建てられました。
これが、加太淡嶋神社の起こりとされています。
厄払いには予約が必要です。
2. 熊野那智大社
ご祭神は熊野夫須美大神で、「結宮(むすびのみや)」として、人の縁、願いを結ぶ宮として崇められてきました。
熊野那智大社は、熊野本宮大社、熊野速玉大社と共に、熊野三山の一社です。
創建は、神武天皇の東征にまで遡ります。
紀元前662年、天皇一行は那智の浜に上陸されました。
そこで光り輝く山を見つけたので、山を目指して進むと、那智御瀧に辿り着きました。
天皇は、その御瀧を大己貴命が現れたご神体としてお祀りされました。
その後神武天皇は八咫烏の先導に依り、大和の橿原の地で紀元前660年2月11日に初代神武天皇として即位されました。
先導を務めた八咫烏は熊野の地に戻り、今は医師に姿を変えて休んでいるとされています(境内にある鳥石)。
本殿は朱塗りの熊野造りで、第一殿から滝宮(大己貴命)、証誠殿(家都御子大神)、中御前(御子速玉大神)、西御前(熊野夫須美大神)、若宮(天照大神)、八社殿(天神地祇)が並んでいます。
拝殿には主祭神の熊野夫須美大神=イザナミノミコトをお祀りしています。
那智御瀧は国指定名勝であり、世界遺産にも記録されています。
全山で48滝あると言われるように数多の滝がありますが、最も高いのが那智御瀧です。
高さ133m、銚子口の幅13m、瀧壺の深さは10m以上ある壮麗な瀧です。
水量も毎秒1トン以上と言われています。
延命長寿の水と伝えられる滝壺の水を飲むことも出来ます。
厄払いの受け付け時間は8時から15時半まで。
ご祈祷料は5,000円からとなっています。
また、那智御瀧での正式参拝も行っています。
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